きっかけ

 私がFDになったのは、小学校5年生の時です。といっても、長いこと、自分が何か名前の付くような「病気」や「症状」であるとは考えたことがなく、ある一定の条件下でのみ起こるひどい「あがり」のようなものと捉えていました。私にとってFDとは、食事に関するいやな体験が原因となり、食事場面で「緊張」して食べられなくなる経験を繰り返すうちにそれが何年も積み重なり、完全に条件反射として心身に染み付いてしまった状態、というイメージです。

 

 私にとっての「食事に関するいやな体験」は、ずばり「給食」です。多くの人にとって楽しいはずの給食が、自分にとっては最悪の時間でした。FDに悩む方のうち、給食がきっかけになったという方は多いのではないでしょうか。

 

 小学校5年生の時、私は千葉県の小学校に転校しました。「西の愛知、東の千葉」という言葉を聞いたことがありますが、当時、一部の学校ではいわゆる「管理教育」が盛んで、私の転校した学校は千葉の某市の中でも有名な「スパルタ校」でした。この学校では、今ではちょっと考えられないような「厳しい」生徒指導が行われていました。その異常さは当時の「朝日ジャーナル」や日刊紙にも取り上げられたくらいです。

 

 ともあれ、この小学校での給食の時間は、私にとって地獄でした。

 

 どこの学校でも似たり寄ったりの状況はあったのでしょうが、何せ、「残す」ことが許されない。クラスの担任同士が給食を「残さない」ことを競っていたため、給食室に戻すバケツに残飯が入っていることが許されなかったのです。更に悪いことに、もしどうしても時間までに食べることができなかった場合、残したものは「全て持ち帰る」ことになっていました。もちろん、給食に出てくるメニューにはおかずや汁物もありますが、内容を問わず、残したものは全てビニール袋に入れて持ち帰らされました。

 

 給食後は、全員が行列行進して校庭に出て、運動することが義務付けられていたうえ、先に外に出たクラスが「勝ち」という雰囲気があったため、食べるのが遅い子は、教師とクラスメート全員の視線が集中するなか、無理やり給食を喉に流し込まなければなりません。昼の掃除があるため、机も教室の後ろに片付けられてしまい、教室の真ん中でぽつりと取り残された状態で冷めた給食と格闘することになります。

 

 食べるのがそれほど早くなかった私にとって、転校後の慣れない環境のもと、静まり返った教室内で(給食中は私語禁止)、時間内に残さず食べなければならないというプレッシャーにさらされながらの給食はひどく苦痛でした。ほどなくして私は、給食が喉を通らなくなり、いつも最後まで机に取り残されることになりました。残した給食は、毎日ビニールに入れて持ち帰りました。もったいない、きたない、という非難の視線を浴びながらビニールに給食を入れるのは屈辱的でした。次第に私は、気持ちが悪くて給食をほとんど口に入れることすらできなくなりました。

 

 このような、中学に進むまでの2年間経験した給食のいやな思いがきっかけとなり、集団での食事や、他人と一緒に食事をする場面になると、条件反射的にのどが詰まったようになり、食事がのどを通らなくなってしまったというわけです。

 

 皆さんは、どんなきっかけがあったのでしょうか。

経験談をお寄せください。